観光地松島は一年中多くの観光客で賑わいを見せていますが、賑やかなところが
ちょっと苦手な私にとってはなおさら、地元に住んでいると行く機会がない?というか
近すぎてあまり行き気がおこらないせいか、ついつい通り過ぎてしまいます(^_^;)。
先日、新聞を眺めていたら"ラジオを聴きながら日本三景「松島」を歩きませんか"という
地元ラジオ局の生放送番組の広告があり、観光客で賑やかな中をラジオ片手にリュックを
背負って歩いてきました。
家から歩いても30分弱くらいのところにあるJR仙石線・松島海岸駅向いにある松島海岸
グリーン広場には、すでにたくさんの人が集まっていて受付開始から30分後に着いた
私の番号は1108番でした(^_^;)。
松島水族館から南東へ200mほど行ったところに、日本三景「松島」の地名のルーツと
される雄島があります。見仏上人がこの島で修行されていたころ、ときの帝の鳥羽天皇
から松の苗木一千本が下賜され、それでこの島が「御島」と呼ばれるようになり、雄島と
いう名前の由来になったということです。又このときにくだされた一千本の松の苗木に
ちなんで、初めは“千本の松の島”という意味で“千松島”と呼んでいたが後に千を略して
松島と呼ぶようになったのが、松島という名称のおこりであると云われているのだそう
ですが、このほかにもいろいろな説があるようで、私的には、このあたり一帯に松の木が
自生し、三百近くの島々にも緑の松がはえているので松島と呼んだというのが、一番
スッキリしていて正しいような気がします(^_^;)。
「瑞巌寺の奥の院」とも称される雄島は、朱塗りの渡月橋で陸と結ばれており、島内に
点在する岩窟には、諸国から渡った修行僧が刻んだ卒塔婆や仏像、法名などが数多く
あり、霊場としての風景を今にとどめています。
バラ寺としても有名な瑞巌寺の西隣にある円通院は、伊達家二代藩主忠宗の次男である
光宗の墓所です。光宗は文武両道に長じていたため、外様大名から名君が出ることを
警戒していた徳川幕府から恐れられ、19歳という若さで毒殺されたというのが定説だそう
です。その死をいたんで建立された御霊屋(三慧殿)は支倉常長がヨーロッパから伝えた
西洋文明の影響が強く、厨子(ずし)の内部の扉には持ち帰った西洋バラの絵が描かれ
ています。
円通院には、江戸時代の日本を代表する作庭家の小堀遠州 が造ったとされる庭園が
ありますが、だいぶ近代的な感じがしました。
陽徳院の宝華殿は、円通院の三慧殿と天麟院にある五郎八姫の廟とをあわせて、松島の
三霊廟と称され、これらの三霊廟は、昭和30年に松島町が伊達家から譲り受けて瑞巌寺
に付与したのだそうです。
松島海岸の東に浮かぶ福浦島は面積が6haで、ラジオの解説によると、プロ野球の
東北楽天ゴールデンイーグルス の本拠地“フルキャストスタジアム宮城”のグランド
部分が43個分入るそうです。この福浦島は252メートルの朱塗りの橋で陸と結ばれて
いて、島には赤松、杉、など約250種におよぶ草木が茂り、遊歩道も設けられた自然
植物公園となっています。 貝塚や弁財天などの史跡も残ざれており、散策も充分に
楽しめます。
当日は、薄曇のなか1300人という大勢の参加者があり、解説をしながら歩いている先頭
から遥か後方を歩いている私は、見ている風景とラジオから聞こえる解説のものすごい
ギャップに悩まされながらも、和歌の歌枕に詠まれたり、諸国の雲水(うんすい)が修業に
励んだ霊場「雄島」。伊達政宗の娘・五郎八姫が余生を送った「天麟院」。二代藩主忠宗
の二男である光宗の墓所「円通院」。今回は、残念ながら中の見学はありませんでしたが、
慈覚大師円仁によって創建されたと伝えられる国宝「瑞巌寺」。政宗の正室・愛姫の御霊屋
「陽徳院」。貝塚や弁財天などの史跡やおよそ250種もの植物が自生する自然植物園に
なっている「福浦島」などの名所旧跡を巡りながら、松尾芭蕉や伊達家の歴代藩主が愛でた
松島の花鳥風月の一端に触れるひとときを過ごすことができました。
欲を言えば、ラジオ番組の企画のために時間の制約や参加した人数の多さなどから、
パック旅行並みの慌ただしさだったので、今度はゆっくりと紅葉でも眺めながら訪ね歩いて
みたいと思っています。
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